小川町の菜の花街道 ── 黄金色が道の両側を染め上げる
四月に入り、小川町の河川沿いに広がる菜の花が一斉に咲き誇った。道路の両脇を黄金色の絨毯が覆い尽くすこの光景は、毎年のことながら実に壮観である。アスファルトのカーブに沿って、どこまでも続く菜の花の群生──その鮮烈な黄色は、冬の灰色を一掃し、春の到来を高らかに宣言している。
重機のエンジン音が響く現場から少し離れると、こうした自然の静謐な美しさに出会える。設備工事に携わる者として、日々インフラを整備し地中に管を埋設する仕事をしているが、ふと顔を上げれば、我々が守るべき暮らしの風景がそこにある。菜の花の黄色は、どこか人の営みの温もりに似ている。
曇天もまた一興 ── 柔らかな光に包まれる菜の花たち
曇り空の下でも菜の花の存在感は変わらない。むしろ、散乱光に包まれた黄色い花々は、晴天時とはまた違った趣を見せる。写真家の間では「曇天こそ花の撮影日和」と言われるが、まさにその通りで、花の色彩が一層柔らかく際立つ。
河川敷を彩るムラサキハナナ(オオアラセイトウ)の群落
菜の花だけではない。川沿いの土手には、紫花菜(ムラサキハナナ)の見事な群落が帯状に広がっていた。正式名称はオオアラセイトウ。中国原産のこの花は、日本各地で野生化し、春の河川敷を紫色のリボンで飾り立てる。黄色の菜の花と紫の花菜──補色の関係にある二つの色が、小川町の春を立体的に彩っている。
母が遺した水仙 ── 三年の沈黙を破って
ふと足を止めた。ブロック塀の脇に、白い水仙が群れをなして咲いている。そして少し離れた乾いた地面からは、一輪の黄水仙が、まるで何かを伝えるように真っ直ぐ空を向いていた。
三年前に亡くなった母が、かつてこの辺りに植えたものだろう。生前、庭いじりが好きだった母は、頼まれもしないのに道端や塀の際にまで球根を埋めていた。「花があるだけで道が明るくなるから」と、日に焼けた顔で笑っていたのを覚えている。
不思議なのは、去年の草刈りの時にはこの花を見かけなかったことだ。水仙の球根は、植物学的に言えば「休眠」という戦略を持つ。土壌の栄養状態や気温の条件が揃わなければ、地中で静かに力を蓄え、一年も二年も沈黙を守ることがある。まるで、咲くべき春を自ら選んでいるかのように。
あるいは、去年の草刈りで地上部が刈られたことが、かえって球根に刺激を与えたのかもしれない。球根植物にとって、葉を失うストレスは翌年の開花を促すスイッチになることがある──そう考えると、自分が知らず知らずのうちに、母の水仙を「起こした」のかもしれない。
春の日差しが柔らかく降り注ぐ中、白い花弁が風に揺れている。母がいなくなっても、母が土に託した命は、三年の時を超えてなお、この場所で春を迎えている。花は言葉を持たないが、この水仙は確かに何かを語りかけてくる。「ちゃんとここにいるよ」と。目頭が少し熱くなった。しばらくその場を動けなかった。
隣ではタンポポが無邪気に黄色い顔を覗かせている。母の水仙とタンポポの競演──計画されたものではない、偶然の花壇。それがたまらなく切なく、そして温かい。
春の珍客 ── 暴走族、今年も参上
春になると、毎年のように現れる「珍客」がある。菜の花の咲く土手のすぐそばを、ひときわ大きなエンジン音とともに通り過ぎていく一団――いわゆる暴走族である。今年もまた、その音と影が、のどかな小川町の春の風景に紛れ込んできた。
道路には、彼らが残していった蛇行のタイヤ痕。アスファルトに刻まれた幾何学模様は、ある種の「記号」のようでもあり、また春の風景に投じられた小さな「事件」の痕跡でもある。地に這う草の合間に伸びる影は、彼らが過ぎ去った後の静けさをいっそう際立たせる。
▼ 蛇行するタイヤ痕──春の道に残された「珍客」の記号
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ふいに、地響きにも似たエンジン音が遠くから近づいてきた。改造マフラー特有の、空気を切り裂くような重低音である。耳をすませば、十数台はあるだろうか。あの低音が一斉に唸りを上げると、不思議なことに、菜の花の花びらまで微かに揺れている気がしてくる。
怒りや諦めではなく、ただ「ああ、今年も来たか」という感慨に近い。地域の自然と暮らしの中に、こうした不協和音もまた季節の風物詩として刻まれていく――そんなことを、夕方の草の影を見ながら思った。
動画を改めて見返すと、彼らのバイクの回転数(タコメーター)はかなり高い領域で唸っている 。空ぶかしや高回転走行は、エンジンに負担をかけるだけでなく、燃費を著しく悪化させる。今年は原油高・ガソリン高で、レギュラーガソリンも以前の倍近い価格帯。一回の走行で消費する燃料は、決して小さい額ではない。
……正直に言えば、自分にもそういう時代がなかったとは言えない。若い頃の話だ。エンジンの唸りに胸を躍らせ、夜の道をかっ飛ばしては、翌朝、空っぽに近いガソリンメーターと、財布の薄さに肩を落とす。 当時は何も考えていなかった。ただ、走ること自体が祝祭だったのだ。 だから、彼らを責める気持ちには、どうしてもなれない。
けれど、年を重ねて分かったこともある。「思いやり運転」は、自分のお財布にも、地域にも、そしてバイクそのものにも、優しい走り方だ ということ。 低い回転数で、丁寧にスロットルを開ける。それだけで燃費は良くなり、エンジンも長持ちし、近隣の人々の朝の眠りも守られる。 若い頃の私に、もし伝えられるなら、そう声をかけたい。
春の風が、変わらず田畑を渡っていく。来年もまた、彼らがこの道を通るだろう。そのとき、エンジン音が少しだけ穏やかになっていたら――それは、この里にとっても、彼ら自身にとっても、そしてかつての自分自身にとっても、ほんの小さな幸福の始まりかもしれない。
▼ 唸りを上げる「春の珍客」──小川町の春の風物詩
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菜の花の黄、紫花菜の紫、母の遺した水仙の白、そして暴走族のタイヤ痕──光も影も、清も濁も、すべてを抱えながら春は深まっていく。設備工事に携わる者として、地中の見えない管を整え、地上の暮らしを支える日々のなかで、ふと顔を上げて見るこの里の風景こそが、私の仕事の意味を静かに教えてくれる。
来年もまた、この場所に春が来るだろう。菜の花は咲き、水仙は眠りから目覚め、そして珍客もまた現れるかもしれない。それでいい。それが、生きている町の証なのだから。
小川町
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日記
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