台風一過の市ノ川と、翌朝の空 ── 荒れた気配は、もうどこにもない
台風が抜けた翌朝、いつもの散歩道を歩いた。橋の上に立つと、市ノ川が濁っていた。普段は底の石が見えるほどの流れが、茶色く重たい水になって、音を立てて下っていく。ほんの数日前まで、静かな川だったはずである。
顔を上げれば、空はもう嘘のように晴れている。ただ、雲の輪郭が、少し前とは変わったように思う。真夏の入道雲は空の低いところで沸き立っていたが、この日の雲は、ずいぶん高いところを流れていた。夕方には、どこかでひぐらしが鳴いていた。八月十五日である。まだ暑い。それでも、秋はもう、山のほうから降りてきている。
今月の敬天新聞(令和八年八月号)に、「酷暑時代 国の備えは万全か」という見出しがあった。本文はまだ載っていない。鋭意調査中とのことである。備えというのは、つくづく報われにくいものだと思う。うまくいけば何も起きず、何も起きなければ、備えた事実そのものが誰の記憶にも残らない。そして事が起きたときにだけ、なぜやっていなかったのかと問われる。護岸も、堤防も、避難の段取りも、みなその性格を持っている。
同じ号には、熊の被害をめぐる議論も載っていた。読者から「御託を並べず今すぐ頭数を元に戻せ」という強い意見が寄せられ、編集部はそれに応えて、人命が最優先であることを認めたうえで、こう書いていた。人間は山を削り、森を変え、自然を都合よく作り替えてきた。その結果が今日の事態であるならば、これは獣害というより、人間の驕りに対する自然からの警鐘ではないか、と。濁った川を眺めながら、この一節を思い出した。私たちは自然を制御しているつもりでいるが、実際には、機嫌のいい日に通してもらっているだけなのかもしれない。
里山と、青い田 ── 稲はもう、穂を持ち始めている
散歩コースの途中に、ヤギを飼っているお宅がある。いつも柵の内側からこちらを見ている、顔なじみのヤギである。その日、様子が違った。小さいのがいる。どうやら子が生まれたらしい。
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散歩コースのヤギ ── 子が生まれていた
親のそばを離れず、覚束ない足でついて回っている。台風が来ようが、遠い国で戦争が起きていようが、この生き物たちは餌を食べ、子を産み、育てている。それだけのことなのだが、しばらく足が止まった。平和というのは、たぶんこういう風景のことを言うのだと思う。何も起きないということ。子が無事に生まれ、無事に育つということ。書いてしまえば当たり前すぎて、標語にもならない。
今日は終戦記念日である。もう数十年前になるが、靖国神社に併設されている遊就館を訪れたことがある。特攻に発つ前の若者たちが、身内に宛てて書いた遺書が収められていた。読み進めるのが、途中から苦しくなった。文章は驚くほど静かで、取り乱してもいなければ、恨み言も書いていない。両親への感謝と、詫びと、先立つことへの断りが、整った字で綴られている。二十歳前後の人間が書いたものである。自分にも子がいて、親がいる。だから余計にいたたまれなかった。
あれから折にふれて考えるのは、遺書そのものよりも、書き終えたあとの時間のことである。飛び立ってから、目標に到達するまでには、数時間があったという。その間、機体の中で、彼らは何を見ていたのだろうか。晴れた朝の、きれいな日の出。眼下に広がる、静かな大海原。皮肉なほど美しかったはずである。その数時間、二十歳の人間は、何を思っていたのだろうか。
知る由もない。誰も帰ってこなかったのだから、それを聞き取ることは、もう永久にできない。私たちに残されたのは、飛び立つ前に書かれた紙だけである。書かれなかった数時間の方が、たぶん、はるかに長い。
身内に、医療に携わっている者がいる。先月、こんな話を聞いた。入院されていた患者さんの中に、かつて特攻を志願しながら、出撃の前に終戦を迎えた年配の方がいらしたという。
それを聞いたとき、私は率直に、運がよかったのだ、と思った。生き延びられたのだから、それ以上に良いことはない。しかし、ご本人はそうではなかったらしい。奥様には、生涯にわたって、同じことを語り続けていたそうだ。自分は出撃できなかった、という負い目。国が求めたときに、自分だけが飛べなかったという思い。そして、先に発っていった仲間たちを失った悲しみ。
正直に書く。私には、この気持ちが分からない。生きて帰れたのなら、それでいいではないか、と思ってしまう。誰があなたを責めるものか、とも思う。しかし、その方にとっては、八十年かけても消えなかった何かが、そこにあったのである。分からない、と書くことしか、私にはできない。申し訳ないが、それが正直なところである。
ただ、ひとつだけ思うことがある。戦後、焼け野原からこの国を立て直し、世界の一位を数多く並べるまでの企業を育てたのは、まさにその世代の人たちであった。異常な働き方だったと、今なら言われるだろう。実際、そうだったのかもしれない。だが、あの世代の何人かが、「自分だけが生き残ってしまった」という負い目を抱えたまま働いていたのだとしたら。その切磋琢磨の底にあったものは、私たちが考える「意欲」や「野心」とは、まるで違う質のものだったのではないか。
先に発った仲間の分まで、という言い方がある。使い古された言葉である。しかし、それを本当に一生かけて背負った人が、確かにいたのだろう。病室で、奥様にだけ、それを話していた。そういう静かな話である。
そのうえで、私はこう思う。同じ八月号の「社主のブログ」に、「何で国防や憲法改正を主張すれば『戦争に突き進んでいる』という認識になるのだろうか?」という一節があった。
戦争は嫌だ。二度とあってはならない。その一点に異論はない。だが、「二度とあってはならない」という結論と、「そのために何をすべきか」という手段の議論は、本来は別のはずである。ところが日本では、手段を口にした途端に、結論の方まで疑われてしまうところがある。憲法第九条の話を持ち出せば、それだけで戦争をしたがっている人間のように扱われる。
九条があるから戦後八十一年間、日本は戦火を免れてきたのだ、という考え方がある。一方で、免れてきたのは別の要因によるのであって、九条はそれを説明していない、という見方もある。私はどちらが正しいのか、断じるだけの知識を持たない。ただ、確かなことがひとつある。攻め込む側は、こちらの憲法を読んではくれない、ということだ。
歴史を見れば、侵略にはたいてい大義が用意されてきた。自国民の保護、歴史的な領有権、脅威の除去──どれも当事国にとっては筋の通った理屈である。理不尽な大義であっても、掲げる側は本気で掲げる。ならば、こちらが平和を望んでいるという事実だけで、それが止まるものだろうか。まして今は、核を持つ国のふるまいが、以前ほど予測できなくなっている。戦後の秩序を支えてきた枠組みが、静かに緩んでいる。
議論した結果として「やはり今のままでよい」という結論に至るなら、それは立派な選択である。私が危ういと思うのは、議論そのものを始めないことの方だ。考えないでいることと、平和を守ることは、同じではない。あの機体の中の数時間を、二度と誰にも過ごさせないために何が要るのか。感情ではなく、頭で考えたい。
中東情勢は落ち着く気配がない。そして、それは遠い出来事のままでは終わらない。原油が上がり、輸送費が上がり、電気代が上がり、店頭の値札が上がる。これは、弊社の仕事でも肌で感じていることである。ポリエチレン管の価格が急騰した。運搬費も上がった。もとをたどれば原油から生まれる材料であり、原油を燃やして運ぶものだから、当然といえば当然の話ではある。それでも、見積書に並ぶ数字が地球の裏側の情勢で動いていくというのは、以前はあまり考えもしなかったことである。
戦争の爪痕、と言っては大げさかもしれない。ミサイルが飛んでくるわけでも、街が焼けるわけでもない。それでも、遠い国で上がった火の手は、確実にこの町の一枚の見積書にまで届いている。世界はもう、そういうふうに繋がってしまっている。
スイカが食べたければ、小川町のマーケットに行けばいい。物価が上がったとはいえ、金さえ払えば、満足するまで食べられる。それが、この町の平和である。書いてみると、ずいぶん散文的な話だ。しかし、八十一年前の八月に、この当たり前がどれほど遠かったかを思えば、散文的であることそれ自体が、たいへんな達成なのだと思う。
その夕方、近所の方がスイカを持ってきてくださった。八十近いご婦人である。おぼつかない足取りで、意外なほど大きなスイカを、徒歩で運んでこられた。両手で抱えるようにして、ゆっくりと。恐縮しながら受け取ったが、正直、ありがたいという言葉しか出てこなかった。
受け取ってから、ふと考えた。あの世代にとって、スイカとはどういう果物だったのだろうか。戦後まもない日本で、これは相当に貴重なものだったに違いない。滅多に口に入らず、手に入れば家族で切り分けて、種まで惜しんで食べたのではないか。その記憶を持っている方が、それを人に贈るという行為に込めている重みは、店で買える私たちの感覚とは、たぶん少し違う。
ご近所の方が、徒歩で運んでくださった
包丁を入れると、いい音がした。赤い実が、思った以上に赤かった。これである、と思った。
今日、この町で空襲警報が鳴ることはない。子どもが遺書を書かされることもない。二十歳の若者が、晴れた朝の海の上を、片道の燃料で飛ぶこともない。川は増水したが、翌日には青空が戻り、ヤギには子が生まれ、八十を過ぎたご婦人が重いスイカを抱えて歩いてきてくださる。
八十一年前、あの手紙を書いた若者たちが願ったのは、たぶん、こういう日常だったのではないか。そして、飛べずに生き残ったことを八十年悔い続けた方が、その手で作り上げたのも、たぶん、この日常だったのではないか。
日が、少し短くなった。夕方の風に、もう夏の重さがない。稲は穂を垂れ始め、じきに刈り入れである。今年もまた、何事もなく秋が来る。この当たり前を次の三十年も続けるために何が要るのかを、恐れずに、しかし勇ましくもならずに、考えていきたいと思う。
戦没者の御霊に、心より哀悼の意を表します。
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